考えろ、考えろってどうしたらいいの? 意外と知らない「考える」技術11

ものさしについて
今回から、考える対象をはかるものさしについて書きたいと思います。
私が考えるものさしの基本は共通化と差異化です。この共通化、差異化の概念は、グレゴリー・ベイトソンの「精神と自然」に詳しい記述があり、ビジネススクール時代に先生から薦められて読んだこの本が座右の書のひとつとなっています。

通化と差異化
ベイトソンは認知という視点から共通化と差異化のしくみを説明しています。その内容は次のような質問から、認識とは結びつきであり(共通化し新たな概念を生み出していくこと)、その重要性を強調しています。

私はゆでたてのカニを机の上に置き、彼ら(補注.学生たち)に向かってこんな挑戦的な問いを発したのである。―――「この物体が生物の死骸であると言うことを、私に納得のいくように説明してみなさい。そう、自分が火星人だと想定してみるのもいいだろう。生物とは火星で日常的に接しているし、君たち自身も生き物である。しかし勿論カニもエビも見たことはない。そこにこんな物体がいくつか流れ星になって降ってきたとする。そのほとんどは完全な姿をとどめてはいないが、観察の結果、これは生物の死骸であるという結論に至るとする。さあ、どうやってその結論に至るのか?」(精神と自然 7pより)

この問いに答えようとすれば、自分が知識として知っている生物の共通性を認識し、それを高次の認識(メタ認識)によりコンテクストを導き出すこと、逆に無生物との差異性を導き出すことで、生物であることも認識しなければなりません。加えて、生物が生きている状態と死んでいる状態の差異の認識、あるいは自分の知識として知っている死骸の共通性を指摘する必要があります。

人の認識の基本
結局、この共通化と差異化という基本が人の認識の基本であると結論付けることができると思います。この考えを発展させたものが分類学です。この考え方をさまざまな問題に適用していくことが、問題を正しく把握することの正しい態度であると私は考えています。つまり、問題を全体的に俯瞰していくためには、共通性と差異性をそれぞれの認識のレベル(高次化)で行っていくことが大切であり、高次化することでよりコンセプチュアルな課題が認識できると考えているからです。

さらにベイトソンは第2章の「学校の生徒もみんな知っておる」の中で示唆的な命題を示し、考えるヒントを与えてくれています。

例えば、
 科学は何も証明しない
 客観的な経験は存在しない
 発散する連続は予測できない
 数と量とは別物である
 論理に因果は語りきれない

正直「精神と自然」は非常に難解な本だと思います。おそらく、未だに10%も理解できたとは思えないような代物ですが、私にとっては時々読み返しては何を意味しているのだろうと考えるための教科書になっています。そんな本ですが、私自身理解できたと思える内容は上述した認識論に対する理解であり、私が物事を見る上での基本になっています。

また、ベイトソンダブルバインド理論を打ち立てたことで有名です。ビジネススクールで学ぶ組織人行動では、このダブルバインドという考え方は有用であり、例えば、親会社から出向した管理職が本社と子会社との間で板ばさみになる状態はいわゆるダルブバインド状態となる典型例といえます。日を改めて、ダブルバインド理論の紹介も行いたいと思います。

精神と自然―生きた世界の認識論

精神と自然―生きた世界の認識論